みなさん、こんにちは!
レビュー系VTuber紙山レベッカ(@rebecca_kmym)です。
さて、今回は『ちいさな独裁者』と『ブラック・クランズマン』をご紹介します!
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第二次世界大戦の末期、ドイツのある兵士の行く末を描いたのが『ちいさな独裁者』。
対して、黒人刑事による白人至上主義団体KKKへの潜入捜査を描いたのが『ブラック・クランズマン』。
一見、共通点がなさそうに見えますが、
・実話をベースにしている点
・根底に流れるテーマ
さらには、この映画が観客に伝えたいこと自体が、非常に親和性が高い作品なんです。
同じ時期に劇場公開となったこの2作、せっかくの機会なので一緒にレビューしていきたいと思います。
もくじ
『ちいさな独裁者』レビュー
この映画は、第二次世界大戦の末期、敗戦を間近に控えたドイツで将校の軍服を手にしたある兵士の行く末を描いた作品なのですが……なんと、本当にあった実話を基に作られているんです。
第二次世界大戦とえば、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人への大虐殺「ホロコースト」が有名ですが、この映画ではドイツ軍によるドイツ人脱走兵への虐殺を描いています。
レベッカ
ネコチャン
この『ちいさな独裁者』の劇中には、直接的に凄惨な描写はあまりありません。
ストーリーとして全くいれていない訳ではなく、しっかり非人道的な行為として演出されています。
レベッカ
というのも、虐殺という行為そのものの恐ろしさはもちろんですが、どちらかといえば、「人はちょっとしたきっかけさえあれば、非人道的な行為に簡単に手を染めてしまう」ということを、この映画では本質的なテーマとしているからなんじゃないかなと思います。
そしてその非人道的な行為の引き金になるのが、「主人公がひろった将校の軍服」なんです。
この時代のドイツ軍の偉い人とといえば、かなりの権力の象徴。
ゆえに、主人公は将校の軍服ひとつでその場を切り抜け、どんどん成り上がっていきます。
主人公は、この軍服と「死にたくない」という気持ち以外、なにも持っていません。ある戦場の、ただの一兵卒でしかないんです。
それを心にとどめて見ると、人間はいかに「表面的なもの」に支配されるのかを思い知らされされる作品になっています。
この映画を最後まで見た方はもしかしたら、ただの「服」でしかないものに、人や組織がここまでだまされたあげく、あんなことになるなんてある……?ありえなくない?と思ってしまうかもしれません。
信じ難いですが、実際に起こったことなんですよね……あんな歴史、いやですよね……
この映画では、そんな歴史を淡々と演出することで「見た目による判断力の鈍化」「大人数で理想的な虚像を作り上げるおそろしさ」「戦争の悲惨さ」という現実をわたしたち観客に、ゴリッゴリに見せつけてきます。
レベッカ
ネコチャン
もし気になって見てみようかな~と思った方は、ぜひエンドロールまでしっかり見ていただければなと思います。
この『ちいさな独裁者』のエンドロールでは、誰もが持つ浅ましさと深い業をただただ滑稽に演出しているのですが、それが当たり前に他人に押し付けられていた時代があったという事実に、心底ゾッとします。
この映画のテーマにもなっている「人を見た目で判断することの恐ろしさ」と「それによって他者を抑圧する愚かさ」は、次に紹介する『ブラック・クランズマン』でも、映画が伝えたいメッセージを構成する需要な要素のひとつになっています。
『ブラック・クランズマン』レビュー
つづいては、2019年アカデミー賞脚色賞を受賞した『ブラック・クランズマン』をご紹介します。
1979年のアメリカ・コロラドスプリングス警察署にはじめて採用された黒人警察官が、白人至上主義団体KKK(クー・クラックス・クラン)へ潜入捜査を試みる一見ハチャメチャ!?なのに、なんと実話をベースに作られた社会派映画になっています。
『ドゥ・ザ・ライト・シング』や『マルコムX』といった鋭く尖った視点から人種差別を描いた作品を作ってきたスパイク・リー監督による渾身の一作です。
社会派映画というとおかためな印象になりがちですが、この作品については、基本的には、魅力的なキャラクターとテンポの良いストーリーで盛り上げてくれる見やすい演出になっています。
とくに主人公をはじめとした刑事4人組が、派手な演出やキャラ付けはないのに、本当に最高で、いまだに脳内で咀嚼してるぐらいです。
レベッカ
ネコチャン
ところが最後の最後ですよ。
楽しんでいた観客の横っ面を叩きにくるような演出が、これまた強烈なんです。
この演出については、「なくてもいいんじゃないか」「蛇足だ」といった声もあるみたいですが、残念ながら、まだいまの時代には必要な演出じゃないかとわたしは思います。
レベッカ
ネコチャン
作品全体を通して「差別」がいかに曖昧な基準のうえに成り立っている愚かな行為なのかを巧みに見せながら、何も解決しない今の社会への怒りを丹念に織り込んだ名作になっています。
ただですよ。たしかにこの作品の中に、監督自身の社会への怒りを猛烈に感じるんですが、その怒りは憎しみだけの単純なものではないんです。
「もっとみんでフラットに楽しく社会築いていこうぜ、なんでそれがまだできないんだよ……!」みたいな“悔しさ”と、変えようと頑張っている人たちを“鼓舞するような想い”があるんじゃないかなって。
だからこそ、みんなでフラットな社会を作れたときに、主人公たちみたいな関係が作れるんじゃないの?って、怒りの先の希望みたいなのものが、あの軽快な演出の中に見えたのもとても良かったんです。
この『ブラック・クランズマン』という作品は、キャラクター・演出含め、作品全体に余白を持たせることで、幅広い解釈ができるよう作られています。
レベッカ
ネコチャン
気になった方はぜひ実際にこの映画を見ていただいて、自分がどんなふうにこの作品を解釈するのかというという点でも楽しんでいただければと思います。
「見た目に騙されるな」という教訓
「人はいかに表面的なものに判断力を支配されるのか」というのは、同時期に公開していた『キャプテン・マーベル』にも教訓じみて描かれています。
人種、性別、職業、信仰、誰のもとに生まれ、どこで育ったのか?どんな趣味なの?なにが好きなの?
それが人種や性別といった一見してわかるものだったとしても、信仰や生まれといった時間をかけて本人から説明されたものだったとしても、その人をかたち作るほんの一部でしかなく、「表面的なこと」に変わりありません。
表面的な印象は、そのたったひとつを認識しただけで、驚くほど人の判断力を鈍化させます。ただそれだけのことに、誰もが囚われてしまうんです。
最近、このわかりやすいものにとらわれてしまう怖さというテーマで作品が作られるとき、「人・社会による個人への抑圧」とセットであることが多いんですよね。
この流れは、いま多くの人々が、この時代が、多様性を求める気持ちが強くなっているからこそかなとわたし自身はわりとポジティブにとらえてます。
ただね、こういう作品と出会うたびに、多くの人がどこまでもわかりあえる世界ってどんなかたちなんだろう?とよく考えてしまうんです。
誰もがわかりあえる世界はあるのか?
誰もが誤解なくわかりあうことって、果たして可能なんでしょうか?
SF的な世界でよくあるのが、個人個人の信念だったり欲望だったりをまとめてひとつの大きな概念にして、なにかを成し遂げるような展開。
例えば、攻殻機動隊のアニメシリーズ。このアニメシリーズのサブタイトルの意味からも、他者とどのように分かり合うことができるのか、ひとつのやり方みたなものが見えてきます。
神山健治監督によって2002年から作成されたアニメシリーズ『攻殻機動隊S.A.C.』。
サブタイトルのS.A.C.はSTAND ALONE COMPLEX(スタンド・アローン・コンプレックス)の略称になっています。
このスタンド・アローン・コンプレックスという言葉は、優秀な個人プレーヤーがそれぞれの仕事を個別(=スタンドアローン)にこなすうちに、複雑に絡み合って(=コンプレックス)、世界を動かすような大きなことを成し遂げる様を示しています。
ファーストシーズンでのスタンド・アローン・コンプレックスという概念は、主人公の草薙素子が所属する公安9課という組織を中心に構成されています。
それぞれに特殊な能力や個性をもった隊員たちが個別に活動することによって、その成果がひとつの事件に集約する様を描いています。
レベッカ
ネコチャン
さらにセカンドシーズンでは、数人の組織にとどまらず、“移民”という抑圧された大きな群衆から、あるひとりの人物を媒介にして、スタンド・アローン・コンプレックスが発生していきます。
レベッカ
ネコチャン
他にもアニメでいうと『機動戦士ガンダム』の“ニュータイプ”という存在も、多くの人々が分かり合うための“触媒”みたいな概念として出てきますよね。
物語の終盤では、ニュータイプという存在を媒介にして個人では決してなし得ないことを、その場にいる多くの人々がお互いを理解し、協力しあうことで達成させるような展開がでてきます。
これもまさに「誰もがわかりあえる世界」のひとつの形かもなとも思います。
レベッカ
ネコチャン
あとはもうひとつ有名どころで言うと『新世紀エヴァンゲリオン』シリーズに登場する人類補完計画とかも、「みんなでわかりあえるように世界をひとつにしてしまおう」みたいな概念ですよね。
ただちょっと怖いなあと思うのが、個人の意志に関係なく、「個人としての意識そのもの」を全世界の人類すべて溶かし合ってまぜこぜにして「個」の集合から大きなひとつの「全」を作り出そうとしているところ。
レベッカ
ネコチャン
この「個」を「全」にするような“わかりあう”という概念を現代に適用しようとすると、情報が統制され、個人の意志は奪われたディストピア的な政治体制になっていってしまうので非常にこわいなあと。例えばナチスドイツみたいな……
いつかわたしたちが「個」としての意志や信念を保ったまま、他人とも尊重しあえる日がくるんだろうか……そもそもわたしたちがアイデンティティをもった個人として存在するってどういうことなんでしょうか……?
レベッカ
ネコチャン
レベッカ
ほんと油断すると、いつもここにだとりついちゃうんですよね……
わたし自身は答えのでない問答を考えるのが大好きなんですが、そこに囚われすぎてたまーに苦しくなるときがあったりして。
学生時代にこのあたりの話を教授にしたときに「そういうときは他者につけこまれたり、最悪、洗脳されたりすることもあるから、本を読むのがいいかもね~」と言われたことを心に刻み、今も律儀に読書で対策しているおかげか、どうやら他社につけこまれることは回避できてるみたいです🤣
そのときに進められた本はいまでも読み返すことが多くて、その中でもクロード・レヴィ=ストロースの「野生の思考」とかは、この手の社会構造に関する疑問への手助けになりました。
レベッカ
ネコチャン
ほかにも「自分ってどういう存在なんだろう?」「社会の中に生きるってどういことなんだろう?」といった自己の探求の行き着く先を紐解きたい方には、仏教学者の鈴木大拙さんの著書もオススメです。
わたしは『無心ということ』と『日本的霊性』をあたりを学生時代に読んでました。
もしこのあたりのテーマに興味がある!という方は、この2冊とてもオススメです!
レベッカ
ネコチャン
はい!ということで、こんなところまで思考が及んでしまいましたが……『ちいさな独裁者』と『ブラック・クランズマン』のご紹介でした。
わざわざここまでお読みいただき、ありがとうございました……!!
人間の愚かしさから一転して、人間のまだ見ぬ可能性にまで思考が及ぶ……そんな社会派映画たちをきっかけに、ぜひみなさんも楽しく思考してみてください。
また次回の記事or動画でお会いしましょう。
それでは、レベッカでした!バイバーイ!!(ΦωΦ)ノシ